「上野発の夜行列車おりたときから、青森駅は雪の中」
青森と聞くと、石川さゆり『津軽海峡・冬景色』の冒頭部分を思い出す。
「私もひとり、連絡船に乗り」
時代は令和。上野発の夜行列車も、北海道へ渡る連絡船も消えた。北の大地への玄関口として、日夜多くの人が行き交っていた賑わいはもはや見られない。
それゆえなのか、いまの青森のまちには、昭和と平成と令和がミックスされたような独特の雰囲気が漂っていた。
2両編成のディーゼルカー
9月某日、新青森駅で新幹線を降りた。
新青森は新幹線の延伸に伴って開業した駅で、青森市の中心からは少しばかり離れている。青森駅へ向かうには普通列車に乗り換えなきゃいけない。
やってきたのは、2両編成のディーゼルカー。最新鋭の新幹線とは打って変わって、古い車両だ。
思えば、この昭和製の車両はタイムマシンだったのかもしれない。事実、車内にはどこか懐かしい匂いが広がっていたし、この車両に乗って到着した青森駅とその周辺には、もっと昭和の香りがしたんだもの。
時が止まった青森駅
青森駅で列車を降りた。あたりを見渡すと、駅のホームがずいぶん長いのが目に留まる。これも実は昭和の名残である。
昭和の時代、北海道へ渡るには青森駅から青函連絡船に乗り換えるのが一般的だった。そういうわけで、かつての青森駅には、「上野発の夜行列車」のような長大な編成の列車が全国各地から青森駅へ来ていた。
つまり、長い列車を停め、北へ向かう大量のお客さんを捌くには長いホームが必要だったわけだ。
しかし、1988年に青函トンネルが開通し、鉄道で海を渡れるようになると状況は一変。青函連絡船は廃止され、終着駅兼乗換駅だった青森駅の需要は徐々に減衰する。
平成の時代に新幹線が青森市内へ到達したものの、駅は別に作られた。令和の時代を迎えた今、青森駅にやってくる列車は先刻乗ったディーゼルカーのような短い編成のものばかり。
こういう状況となったからには、駅を抜本的に作り替え、ホームなんか短くしてしまえばいい。実際に線路の数なんかはだいぶ減らされたと聞く。しかし、ホームは今のところ長いまま取り置かれている。
でも、それがいい。青森駅に降り立ち、長いホームを見渡すだけで「北へ向かう人の群れ」であふれかえっていた昭和の活気が脳裏に浮かぶ。
青函連絡船もそのままに
廃止されたはずの青函連絡船も、現役時代のまま残されている。青森駅の目と鼻の先に。
黄色と白のカラーリング、名は『八甲田丸』。青函トンネルの開通まで、大勢の人とモノを運んでいた。
近寄ってみると、船の目の前に線路が並んでいるのがわかる。
この線路は昔、青森駅まで続くものだった。全国各地から青森駅に集まってきた貨物列車などの車両を、青函連絡船に積むための線路である。
今はもう動かない船と、分断された線路。使わないのに残されているのは、青森駅のホームと一緒だ。
わざわざ。もちろん、観光資源として保存した意図もあろう。だけど、それだけじゃないと思った。
青森のまちは、昭和を、人とモノで賑わった時代を、端々にとどめようとしているのではないか。
メシ屋にて
そんな漠然とした考えが確信に変わったのは、青森市内のとある居酒屋に入ってからだった。
カウンターと座敷からなる、味のある店内。見るからに頑固そうで、口数の少ない大将が一人で切り盛りしている。
正直なところ、愛想はよくない。だけど、料理と地酒はバツグンに美味い。
店内には昭和歌謡が響き渡っており、酔った頭に心地よく響く。
「昭和だ」、と思わず声に出していた。平成生まれで昭和なんか見たことないけど、たしかにいま昭和にいる。
翌朝も全く同じことを思った。朝ご飯を食べるため、市場で朝からやっている食堂で。
この食堂も、口数の少ないお母さんが一人で切り盛りするお店だった。
ここでも、昭和歌謡のBGMが流れていた。美味しいマグロとともに、昭和の香りが体中に染み渡る。
やっぱり青森には、どこか昭和の香りがする。そんなことを思いながら、青森のまちを去ったのだった。
青森の記憶
人は記憶を残したがる生き物だ。なかでも、いい思い出は絶対に忘れたくない。自分が輝いていたあの頃を、いつまでも反芻し続ける。それが人間である。
ところで、まちはよく「人」に例えられる。生まれ、成長し、やがて衰える点で、人の一生によく似ているからだ。
青森のまちにとって、忘れたくない、いつまでも覚えていたい記憶ってなんだろうか。やっぱり、北の玄関口として大いに賑わった昭和のころだと思う。
だからこそ、青森のまちは端々に昭和の香りをとどめているんじゃないか。一番の栄光の記憶をほんの一部でも残そうとする、青森のまちの人間らしい部分が感じられる。
時代はもう令和だ。青函トンネルが開通して、青森の中心街に訪れる人は間違いなく人が減った。新しい建物ができて、まちの風景も大きく変わった。
それでも、青森に行くと昭和の香りがする。きっと、それは青森のまちが、訪ねてきた僕たちに栄光時代の面影を見せようとするからだろう。