震災のときのこと、あんまり思い出したくない

東日本大震災から10年。東北で生まれ育った僕にとっては人生の節目の1つだ。だから、誰かに読んでもらいたいわけではないのだけれども、記録だけは残しておきたい。そう思ってこれを書いている。

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あの日、地震が来たことに気づいたのは、小学校の教室で帰り支度をしていたときだった。そういえば、僕が一番最初に「地震だ」とか言ったんだっけ。

机の下に身を隠した僕は、長い揺れの間、隣の席の女の子と話しをした。その子は自宅で飼っていたウサギのことが心配で泣いてた。その時は「地震で泣くなんて……」などと思ったんだよ。結局その日、僕は大泣きをすることになるんだけど。

 

下校中、ちょっと前まで晴れていたはずの空から雪が降り始める。少し不安な気持ちで歩みを進め、家に着く。幸いなことに、我が家は東北地方のなかでは珍しく停電していなかった。

電気もガスも水道も全部使えた。ただ、正直に言うと、停電しててほしかったよ。まだ年端もゆかぬ12歳の少年は、テレビに映る津波の映像がトラウマになってしまったんだ。

 

2010年の夏、僕たち家族は宮城県の気仙沼市で一泊二日の旅行をしていた。泊ったのは民宿で、みんな優しくしてくれた。海のすぐそばのお店で食べたフカヒレ丼、あんなに高級で美味しいものはそれ以来食べてない。

親戚の住むまちも、大好きな特撮作品の生まれ故郷も。僕が当時一番好きだった鉄道路線も。全部流されて、あちこちから火の手が上がってた。行方不明者が○○人、死者が○○人、原発がどう、放射能がどう、見たくないこと、聞きたくないことが全部テレビから聞こえてくる。

絶え間なく続く余震に兄弟3人で肩を寄せ合って寝た。恐怖なのか悲哀なのか、本当に涙が止まらなかった。これが僕の震災体験だ。

もっと壮絶な想いをした人も知り合いに数人いる。彼らは沿岸部に住んでいて、同級生を津波で亡くしたという。

 

そう考えると、「あんときは電気も食料もあって贅沢な身分だったな」と思う。ただ、あの時リアルタイムで植え付けられた傷は一生消えない。今でも津波の映像を見ると震えと涙が止まらなくなる。遺族の悲痛な声を聴くと、動悸が激しくなって何も考えられなくなる。

贅沢な身分だったはずの僕ですらそうなんだから、実際の被災者はもっとつらかったはずだ。

とにかく、目の前で大勢の人が死んでいくさまは、12歳の少年の、精神が成長しきっていない心にはキツすぎた。同じような想いを抱えている同年代の東北人はかなり多いんじゃなかろうか。

そういう人は震災のことを忘れて生きていたいんだ。もちろん忘れちゃいけない、そりゃわかってるよ。忘れらんねぇんだよ。ほっといてくれよ。

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東日本大震災から10年。視聴率やPV数が稼げるからか、今年はやたらセンセーショナルな再現ドラマとか取材記事とかが散見される。

岩手の沿岸部で災害ボランティアをやってる友人から聞いたんだけど、まちはだいぶ綺麗になって、快適な暮らしと災害への備えがばっちりできるようになったそうだ。いまは「心の復興」を目指す段階なんだってさ。

まちは整ったけど、心はまだまだ。つまり、地震や津波の記憶は未来の対策に生きる教訓的な部分を残して、できる限り震災のことを思い出さずに生きられるようにしなきゃいけない。

なのに、それに対していまの世の中はどうか。ことさらに震災のことを取り上げて、「お涙ちょうだい」のごとく人の気持ちを煽るようなことばかりしてはいないか。

もちろん、災害のことを強く記憶にとどめなければまた同じ被害が生まれてしまう。そんなことはわかってんだよ。伝え方を考えろって言ってんだ。

だからもう、そういうのは今年で最後にしてほしい。10年経ったぜ、節目の年だぜ。こちとら震災のこと、本気で忘れたいんだよ。

コラム
この記事を書いた人
コフンねこ

大阪在住の大学生。Our Local編集長・ライター・Web企画。古墳が大好きで、話し出すと止まらない。普段は魚を捌いたりラーメンを作ったりしている。お仕事依頼はTwitterのDMまたはkofun.neko@ourlocal-labo.comへ!

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