祖母の、戦士した兄と遺骨のないお葬式について

祖母に戦士した兄がいることは漠然と知っていた。

高校三年生で文化祭実行委員になった弟が当日におふざけで丸坊主にしたとき、祖母は「戦士した兄に似ている」と呟いていて、孫の私はその様子を見て不謹慎にも爆笑していたのだった。今となってはもう三年も前の夏のこと、祖母がまだ死にそうにないほど元気だった頃のことである。

そして今夏、遠い東北の田舎に帰省した折、その祖母が遺した写真類を整理する機会があった。といっても、じつは正確には祖母の持ち物ではなく、その母のもの、僕からすればひいおばあちゃんが大切に持っていた写真類らしいことが被写体から伺える。

なぜそう読み取ったのかといえば、曾祖母本人だけでなく、その息子、つまり祖母の言う「戦士した兄」の姿が写されていたからだ。

写真の束の傍らにはその人が学生時分に大変成績が優秀だったことを示す賞状の類や学級委員長の任命状が添えられていた。そして、海軍の一員として太平洋戦争に臨んだことも一連の書類からわかった。

海軍の制服を着た記念写真では凛々しい表情であったものの、学生時代の友人とのスナップはおちゃらけた表情で、真面目一辺倒ではなかったらしい。

そして、たしかに丸坊主ではある。しかし僕の弟の丸坊主姿とは似ていない気がする。祖母の記憶は相当曖昧だったのだろう。

それはともかくも、最後の最後に、どうもお葬式の様子らしい写真が見つかった。たしかにお坊さんと祭壇が写っている。でも、違和感があった。あるはずのものがない。

言うまでもなく、その違和感の正体は遺骨の不在である。

昭和19年、終戦まであと一年。海軍の一員だった彼は海の上で亡くなったのだろう。

やるせない気持ちになった。

今の僕よりも若くして亡くなった大伯父。その志はわからない。ただ、曾祖母や祖母の心の痛みは如何ばかりだったか。写真がいつまでも遺っていたのは、似ても似つかぬ孫の坊主姿に兄の面影を重ねたのは……。

なぜ久方ぶりの更新でこのような話を載せたのかといえば、私たちの身内のことを何かの文章にして遺して置かなければならないという、強烈な使命感に襲われたからである。

平和がどうとか、そういう話に結びつけたいわけではない。ただ、戦士した先祖の写真や賞状を適切に管理していく必要があること、遺骨のない祭壇に向き合った身内のことを、文章にしたかった。

次に年末に帰省するときは、祖父母のお墓は雪に埋もれるかもしれない。そのときは仏壇に向かって写真を見せようかなと、思っている。

コラム
この記事を書いた人

大阪在住の大学生。Our Local編集長・ライター・Web企画。古墳が大好きで、話し出すと止まらない。普段は魚を捌いたりラーメンを作ったりしている。お仕事依頼はTwitterのDMまたはkofun.neko@ourlocal-labo.comへ!

コフンねこをフォローする
コフンねこをフォローする
ゆるゆる地方研究メディア|Our Local