愛知の赤味噌は海の向こうからやってきた?
製造者の方々すらそのルーツを正確に把握できていない「愛知の赤味噌(=豆味噌)」。今回はその謎を追った。
すると、
がわかった。
ここから導き出される筆者なりの結論は、「愛知の赤味噌の原型は古墳時代に朝鮮半島からやってきた」である。
愛知において初めて須恵器を作った集団は、おそらく朝鮮半島からの渡来人だと言われている。彼らがこれまでの日本には存在しなかった調理・貯蔵器具とともに豆味噌のレシピをもたらしたとしても不思議ではない。
トウチやテンジャンはかなり古いタイプの発酵食品だ。作り方のワイルドさが物語っている、と学者の方々は言う。したがって、そのレシピの歴史はかなり深いはず。
また、須恵器の甑と甕がなければ赤味噌を作ることはできなかった。
これらを合わせて考えると、愛知の陶器生産と赤味噌生産が同じルーツを持つ可能性を指摘できる。
証拠が分野をまたいで存在する関係で、学問的な証明は難しい。だが、一定の妥当性はあるのではないだろうか。
愛知の赤味噌の独自性
ただし、テンジャンやトウチといった大陸系のお味噌は、愛知の赤味噌と100%一致しているわけではない。
豆味噌と違って、テンジャンは麹菌ではなく枯草菌を使うし、トウチは豆粒を潰さないで作る。
そもそも、お味噌作りで用いている菌は各国で異なる。トウチで用いる麹菌も、日本の麹菌とは別種。それぞれの風土に合わせた菌を使っているわけだ。
筆者はここに愛知の赤味噌の独自性をみる。
よく考えてみると、愛知の赤味噌はテンジャンとトウチの中間的な作り方をしていることがわかる。
麹菌を豆に直接つけて繁殖させるのはトウチと同じで、豆粒を潰して塩水とともに長期間貯蔵熟成するのはテンジャンと同じ。
これから先は完全に推測だ。古墳時代の愛知にやってきた渡来人は、元々テンジャンとトウチのそれぞれ別のレシピを持っていたのだと思う。
現地に住む日本人が日本の風土に合わせて2つのレシピをドッキングさせ、内的に発展させたのが現代の愛知の赤味噌なのかもしれない。
コフンねこ流結論
・愛知の赤味噌は、古墳時代に中国大陸や朝鮮半島からやってきた!?
・愛知の赤味噌は、渡来人が持つ二つのレシピを合体させたモノ!?
愛知の赤味噌と平城宮跡の木簡
奈良の平城宮跡から出土する木簡に、奇妙な食品の名前が刻まれている。
その名も「鼓(くき)」。
鼓=トウチの“チ”であることから、研究者の間では豆鼓に近い食べ物であることが推察されているらしい。
愛知県に隣接する静岡県では、豆鼓と非常によく似た「浜納豆」を生産している。したがって、そのような浜納豆がかつて「鼓(くき)」と呼ばれていたのではないか、と言われているようだ。
浜納豆(ヤマヤ醤油HPより)
いくら発掘調査を重ねても、その時代の食品がそのまま出てくることはない。だから、本当に「鼓(くき)」がトウチや浜納豆に近いのかを知る術はない。
もしかしたら「鼓(くき)」は現代の愛知の赤味噌に近いモノかも、とも考えられる(製造方法が少し似ているから)。
いずれにせよ、「鼓(くき)」はその時代に大豆だけを利用した発酵食品が存在したことを示しているのだ。
長い間、発酵食品業界では醤油と味噌は(木簡に書かれた食品で言うところの)「醤(ひしお)」から発展したモノと言われてきた。
しかし、平城宮跡出土の木簡では「醤(ひしお)」と「鼓(くき)」がそれぞれ別の食べ物として登場する。
愛知の赤味噌は、そのルーツ(仮)を考えると「鼓(くき)」に近いグループと言えよう。
世間でもそれからこの記事でも、愛知の赤味噌のことを「赤“味噌”」「豆“味噌”」と呼んできたけれど、ソレはかつて味噌とは全く別の発酵食品として認知されていた可能性がある。
醤→→→醤油・味噌
鼓→→→浜納豆・愛知の赤味噌?
「鼓(くき)」に関わるこの新たな提言でこの記事を締めたい。