休むのが下手くそな全ての人へ
私は、めちゃめちゃ身体のコリが酷い。
友人に肩を揉んでもらうと「小さい頃揉んだお父さんの肩じゃん」と言われるし、呼吸が浅すぎて酸欠の金魚の気持ちになることもよくある。いくらほぐしても治らない。
見かねた友人が誘ってくれたのは、城崎だった。まだ暑いけど「まぁ……許したるわ」程度には涼しくなってきた9月中旬のこと。
8月はほぼ毎日予定が詰まってた。一週間ごとに全く別の県にいてほとんど帰宅できないという殺人的スケジュールで動いていた私は、酸欠で口をパクパクしながら友人を拝んだ。友人から後光が差していた。
そう、私には休養が必要だった。
いや、人間にはいつでも休養が必要だ。
「休養って、疲れ切っちゃう前に取らないと意味ないと思うんですよ」と誰かが言っていた。
しかし、そこまでの計画性を持てなかったり無視したまま突っ走っちゃうような「気づいたらスケジュール全部埋まってた」系の皆さんや私は、そもそも「休み方」を忘れちゃっている人が多いような印象がある。
だから、強制的に休まざるを得ない環境に行くのは、私たちとって一番の特効薬なのだと思う。
3時間半ほどバスに揺られる。
高速道路をひたすら進み、城崎へ近づいていくにつれバス停1つずつに停車するようになる。バス停間の距離が長い。
地元の住民が乗っては降りていく。乗車券ごとの運賃表示が目まぐるしく切り替わる。
その様子をぼーっと眺めたり、友人に好きなラップバトルの動画を無理やり見せたりしていたら、「次は、終点城崎温泉」とアナウンスが聞こえてきた。
城崎に行くのだからと息巻いて荷物に潜ませた文庫本は、開かれないまま忘れ去られていた。
城崎にて
天気は曇り。多分いずれ雨も降るのだろう。私は日光が苦手なので空を見上げてニコニコする。
曇天に小粋な街並みがよく似合う。
実を言うと、城崎へはずっと来てみたかった。
「大阪に引っ越してきたのだから、関西圏へのお出かけいっぱいするぞ!」と息巻いて3年前に見つけたのが城崎だった。それまでは城崎が兵庫県にあるのだということも知らなかったのだ。
大阪からだと、アクセスも悪くない。ただ、京都に住む人が頻繁に清水寺に赴くわけではないのと同じように、近ければ近いほど、手に届きそうであればあるほど、なんとなく訪れる機会を逃しがちな場所なのではないかと思う。
しかし、ほんのちょっとしたタイミングで、その薄い「行ってみたいなぁ」の膜を内側から破って、衝動的にそこへ到達してしまうことというのは確かにあって、それが私の場合は3年かかった。
3年越しの城崎、と言うと感動的だが、私は大抵の人と同じように志賀直哉の小説で「城崎」を知っているだけで、城崎については何も知らないに等しかった。
だから、到着したバスから降りたときはまるで小説の世界に飛び込んだような心地だった。
「着いた……?のか」と拍子抜けしながら駅周辺を散策する。
足湯があった。
ずっとバスに座りっぱなしで浮腫んでしまった足をそっと潜らせる。
心地よい熱さ。すぐにお湯に浸かっている部分が真っ赤になった。
綿密なスケジュールを組み立てる旅行も好きだが、今回はかなり緩めにバスと旅館だけ予約してやってきた。だから、この時点ではこの足湯が、城崎にある7つの外湯のうちの1つ、「さとの湯」に併設されたものだということも全く知らなかった。
そもそも外湯のイメージが全く掴めていなかった私は、自分がその入口付近に腰掛けてにこにこしていたことにも気づいていなかった。
温泉の建物の屋根じゃないですもん。おしゃれだ。
私の地元の言葉ではこういうのを「しゃれとんしゃあ」と言う。
本当はお洒落な人に対して用いることが多い言葉だけど、この建物、十分セクシーだし使っていいと思う。
「しゃれとんしゃあ……」
この屋根で温泉で入口に足湯まであるのずるいですね。ずるいと思います。
そんな感じで、思わぬ形で歓迎を受けて(駅から10秒のところに温泉あるって思わないじゃん……)私の休養はスタートした。
おいしいものをたべる
足湯もそうだし、プールなんかもそうなんだけど、水に浸したあとの足をよく拭いて、靴下を履き直すのが好きだ。
ベランダに干して日光浴させた布団にダイブした時と同じような気持ちのよさがあると思う。あれくらい穏やかな太陽が好きだ。
足がポカポカになったらお腹もポカポカにしたくなったので、お昼ごはんを探すことにした。
ちなみに、城崎は松葉蟹が有名だけど私たちは滞在中一口も蟹を口にしていない。名物を食べることがメインの旅にしたくなかったし、予算をそこまで高く見積もっていなかった。
そんなわけで、私たちは迷うことなく店を選んだ。
「創作料理 響 城崎温泉」。城崎温泉駅からもう見えている。徒歩1分程度ではなかろうか。
このお店がすごいのは、ランチタイムだ。
上の画像でも分かる通り、「牛タン・鶏肉・牛ステーキ」の鉄板焼ランチが1000円ちょいで堪能できてしまう。ちょっと何を言っているのかわからない。即決。
結局名物の牛肉食ってんじゃねーか!とか言わないでください。安さが異常なんですよ、普通ウン千円するの!肉は食えるときに食え。
期待以上に鮮やかで豪華なものがやってきた。旅館でよく見かける固形メタノールに店員さんが点火する。
「塩か、ポン酢でどうぞ、最初は油引いてありますが途中からバターを溶かしてお召し上がりください」
了解!バターは最高。きんぴらごぼうに葉っぱ載ってんのおしゃれ〜。
これなんだよ〜!と叫びたくなるような純粋な肉の暴力。牛タン1000円で食べられるのほんと意味わからんな。友人の頼んだステーキも一切れもらったけど、牛タンもステーキもどちらも最高に美味。
みんな蟹だけじゃなく肉も食うべき。自分で焼くのも楽しい。次に何を焼くか考える。
これは頭脳戦だ。
私は最後の一口に何を頬張るか考えて、逆算して、慎重に食べていく。そうでもしないとすぐに食べきってしまいそうなほど美味しかったから。
そうやってかなりゆったりした結果として、肉を一切れだけ残した状態で固形メタノールが燃え尽きちゃったの迷惑客すぎますね。
久々にこんなにゆっくりご飯食べたな、というほど味わって食べた。
小鉢も素敵。がんもどきは安心する甘さで、きんぴらごぼうはかなり鋭い辛さ。デザートのわらび餅も上品で嫌な甘さが一切ない。バランスが良かった。
気がつくと1時間ほど経っていて驚いた。美味しいもの食べると時間が歪むんですね。そろそろ出るか、と椅子から腰を浮かす。
旅館のチェックインまではまだまだ時間がある。
あるいてやすむ
城崎といえばこの川と柳と橋だろう。言及が雑だが、大抵の人間は城崎と言われれば、温泉を連想した後にこの景色を思い浮かべるのではないだろうか。
川沿いを歩く。
平日であることもあって人通りはまばらだ。時折、浴衣姿の人とすれ違う。外湯めぐりだろう。
お土産屋さんはもちろん、「○○商店」だとか「○○酒店」だとかがとても多い。街をあげて、「旅館」「温泉」「地元の商店」がそれぞれ利益を分散できるような取り組みを行っているらしい。
どこか一つが強くなりすぎたり、外から何かが入ってきてしまって、その他が振り回されてしまう観光地というのはたまにある気がするが、そのあたりのバランスを取りつつみんなで城崎を盛り上げていきましょう、とする真摯な姿勢は非常に好感が持てる。
真新しいカフェの真横に老舗の喫茶店がある光景かなり面白い。喫茶店でチェックインまでの時間を過ごすことにした。
「軽食喫茶 スコーピオ」に入店する。マスターと店員が2人。店員多くない?そういうところ好き。あと、山の写真を飾っている喫茶店は信頼できます。個人の感想。
そこは、完全に城崎町民の空間だった。
喫茶店に「いつもの顔ぶれ」が揃って、雑誌をゆっくり目で追ったり、ローカルな話題で盛り上がっている人々を眺めるのが好きだ。
「そろそろ行くわ」とおじいさんがバイクを爆音で発進させる。マスターと仲の良いおばあさんが片手を挙げて来店する。
バニラアイスの載ったアイスコーヒーを頼む。美味しい。
ホッとする。
何十年も同じように作り続けているのだろうと思わせられる、軽い深みのある味。
出してもらったマッチ箱を眺めながら、「これを収集する人の気持ちとても分かるな」と惚れ惚れした。
外は小雨で霞んでいる。
やどでだらける
「城崎温泉 喜楽」が本日の旅館。御殿じゃん。
城崎の建物はどこか独特で見ていて飽きない。
建築に明るくないため詳しいことはわからないが、3階建てが多いし、造りの複雑な建物が多いように感じる。宿は友人が取ってくれていた。こんな立派なところに泊まるとは思っていなかったので私は狼狽える。
もちろん相応の値段のする旅館だが、オフシーズンの平日だったこともあり少し安くなっていたので予約を取れたそう。当日は満室だった。
チェックインをすると、外靴をどこかに持っていかれたので戸惑った。靴を人質に取られたかと思った。旅館に泊まり慣れていない。
これは……。これはこれは……!
めっちゃいいな!
「ここに住みたい」と、今まで泊まった何人の人がそう思ってきたのだろう。温かい日本茶が沁みる。
窓からの眺めも素晴らしかったし、みんな大好き「例の空間」も存在している。広縁(ひろえん)というらしいです。調べました。
ひとしきり休憩して、それから浴衣を着るのに悪戦苦闘して(結局すぐ脱ぐんじゃんと思ったので何も気にならなくなった)、外湯めぐりへいざ。
あついおゆにつかる
前述した通り城崎には外湯が7つあり、旅館に泊まると「外湯めぐりフリーパス」がついてきて全ての湯に入り放題になる。定休日もバラバラなのでいつ来ても確実にいくつか回れるようになっている。
先程お邪魔したスコーピオを横目に道を曲がる。少し離れた場所に「鴻の湯」がある。
城崎温泉には『コウノトリが足の傷を癒やしていたことがきっかけで発見された』という可愛らしい由来があるらしく、庭園にコウノトリの像があった。
旅館の窓から一瞬、コウノトリのような鳥が街並みを縫って飛んでいくのを見たのだが、「まさかね」と思う。
コウノトリにゆかりのある地だったとは、この「鴻の湯」にやってくるまで知らなかった。特徴のよく似た別の鳥だったのかもしれない。
館内の写真撮影ができないため、ここからは私の感想を中心に。
最近、交互浴にハマっている。サウナや熱めの風呂と水風呂を数分毎に繰り返して入るあれだ。
「整う」という感覚がまだどのようなものか、未だ確信が持てないため初心者もいいとこなのだが、城崎温泉では全ての湯で交互浴をしてみることにした。熱めの温泉だったので、長時間入り続けることが難しかったというのもある。
お湯に浸かってしばらく経って、冷水のシャワーを浴びるのを数回繰り返す。「身体の芯が解けていく」というのはこういうことなのかもしれない。
鴻の湯には露天風呂があって、それがまた良かった。
雨は、降ったりやんだりを繰り返している。濡れている草花が好きだ。じめじめと光る木肌が好きだ。露天風呂の周囲に広がる庭園は、草木が湿って艶っぽい。
外であるから水温も屋内より少し低めで、ゆったりと過ごすには丁度良い。屋内の熱めの湯で交互浴をして体中に張った糸を柔らかくして、露天風呂へ出てその糸を更にほぐす。
上がってから再び浴衣を着たが、汗がどんどんと吹き出て大変だった。
違和感に気がついたのは上がってしばらくしてからだった。
座っていたソファから立てない。流石にここまでの疲れは自覚していなかったので驚いた。疲れを感じる部分が麻痺していたのだろうか。
少しの間じっとして、マッサージチェアに揺られながら目を閉じていた。光を目に入れるだけで頭痛がした。入浴にも体力が要るので、湯疲れしたのだろう。自分が消耗していたことにやっと気づいた。
ゆっくりするための旅なので、とことんだらけることにする。
歩くのもふらふらとするようだったので、傘を杖代わりにゆっくりと進む。涼しい風に当たるとだいぶん気分が良くなった。
ゆっくりと散歩する。城崎は雨が似合う街だな、と思う。街全体がしっとりと潤って上品な賑わいがある。冷めたアスファルトに下駄を打ち鳴らす。2軒目の「柳湯」へ到着する頃には、城崎へ来る前よりも身体に軽さがあった。
明かりを受けた柳の葉が揺れて、纏った水滴が静かに煌めいていた。
「柳湯」は、薄明かりだった。木の温もりを感じる空間で、天井は高く白い湯気で幕を掛けられている。湯船は深く、浸かると温かな繭にすっぽりと覆われたようになる。
この時間帯は町民が多くて、自分の住む街に温泉があることの幸せについて考えた。
2度目の入浴では、あの怠さはもうなかった。代わりに自分の背や肩、首にかけて熱が巡っている感覚があった。血、通ってなかったんですかね……。
にぎわいにくわわる
私が俳人なら絶対ここで歌詠んでるな。詩人じゃないけど詩を綴ればよかったな。
酒屋さんに煌々と掲げられたウイスキーの看板だとか、柳が揺れるのに合わせてきらきらと光を反射する水面だとか、一つをとっても、同時に全部を見ても、素敵な光景だなと思う。
私はそれを非日常としてではなく、日常の延長線上にある風景として見つめられることを願った。
そうすればきっと、「休むこと」をもっと当たり前のように日常に取り込むことができるはずなのだ。
昼間は閉まっていた「センター」が開店していた。
「ゲーム」センターだったのか。
古いピンボールに、なんと古いパチンコも。光と音がバチバチの筐体しか知らない私のテンションはじわじわと上昇した。
早速やってみたものの、とても難しい。
手に難があるため、レバーを丁度良い塩梅で捻ることができない。強くしすぎたり弱すぎたりで、台に吸い込まれるどころか不発弾として何度も同じ玉が発射台まで戻ってくる。
見かねた友人が教えてくれるものの、スタート地点に立てない。掠りもせずに玉が尽きてしまったが、それでも面白かった。
射的もある。よくわからない気持ちの悪い人形に命中させて、下へ落とせば良いらしい。外すほうが難しい距離だった。景品に、食べられそうな柔らかさをしたティッシュをもらう。
ひとしきり遊んで満足したので宿に戻る。襖を開けると、留守の間に敷かれた布団の白さが目に飛び込んでくる。シーツを汚さないように「例の空間」で晩酌をする。疲れとのぼせですぐに酔いが回った。
友人が、「夜中に旅館で食べるカップヌードルが一番旨い」と言っていたので、少し分けてもらう。
なるほど確かに、カップヌードルの美味しさを最大まで引き出すのは、旅館の一室で、後は寝るだけの状態で、明日への不安もなく、少しの後悔を感じながら啜るこのシチュエーションなのかもしれなかった。
あさからいっぱいたべる
快眠だったし、寝覚めも良かった。朝食が、とてつもなく豪華だった。ご飯がおひつで出てきて嬉しい。ご飯のお供が多くて迷う。
朝からこんなに入るだろうかと思ったが、上品な味付けで胃にやさしいものばかりだったので、ぺろりと行けてしまった。普段は朝にそこまで食べられる方でないので驚いた。
ところで、食通だった志賀直哉、城崎に逗留している間は朝食にわざわざ外から取り寄せたトーストを食べていたらしい。なんか腹立つな、旅館の朝食を食え。
でも、そこから城崎に食パンがやってきたのなら面白いなとも思う。パン派だったんすね。
既に火を通されているのに、もう一度「旅館で絶対出てくる一人用鍋」で焼かれる魚がちょっと面白かった。朝ごはんにかける手間暇じゃないだろ、と思うがそこまでに手厚い旅館のサービスの高さが伺えた。
そういえば、外湯めぐり用に部屋に置かれていたビニール袋も、中が2つに分かれていて濡れたものとそうでないものを分けて入れられるつくりをしていた。
他の旅館でもそうなのかは分からないが、ビニール袋一つで外湯めぐりをできる快適さに舌を巻いた(持って帰って銭湯用に重宝している)。
チェックアウトしてまず向かったのは、「一の湯」だ。
ここは、昔ながらの銭湯といった趣のつくりになっていて、ただ、湯舟の形が細長くて不思議だった。前方後円墳を縦半分に割ったような形をした湯舟だ。
しばらく交互浴を繰り返していると、露天風呂があることに気が付いた。「洞窟風呂」だという。
こちらはポケモンのゴローニャを縦半分に割ったようなゴツゴツとした岩肌がドーム状となって露天風呂に浸かる私たちに覆いかぶさってくる。半分に切り取られた空が、岩とのコントラストでより一層青く感じられる。ドームに反響して、男湯からまるで鯨の声のような音がこだましてくる。
屋内の細長い湯舟は岩肌に沿ったものだったのだと気づいた。
朝から湯舟に揺蕩うのがこんなに心地よいものだとは知らなかった。
最初に温泉に浸かってから、少しずつ身体が変化しているのを実感した。湯疲れすることもなくなったし、入浴するたびに元気になっていく。面白い。
はしゃぐ
「城崎文芸館」へやってきた。私はそんなに志賀直哉や城崎を訪れた他の文豪たちにも詳しいわけではないが、特別展「『本と温泉』のつくり方」を見たかったのだ。「本と温泉」の公式サイトには、
「本と温泉」は、2013年の志賀直哉来湯100年を機に、次なる100年の温泉地文学を送り出すべく、城崎温泉旅館経営研究会が立ち上げた出版レーベルです。
とある。そう、ここ城崎でしか買えない本が存在するのである。
志賀直哉の「城の崎にて」に大ボリュームの解説を追加した豆本に、万城目学「城崎裁判」、湊かなえ「城崎へかえる」と錚々たるラインナップ。2人の作家の作品は書き下ろしで、さらに装丁にも遊び心がふんだんに散りばめられている。
万城目学「城崎裁判」は、ブックカバーがなんとタオル生地。紙は「ストーンペーパー」という耐水・防水性に優れた特殊な紙が使用されている。
つまり、この本は温泉に浸かりながら読むことができる本なのだ。本の虫が一度は考えたことのある「風呂で本を読みたい」を完全解決してくれる最高の仕掛けである。
湊かなえ「城崎へかえる」も、ぱっと見で本とはわからない。なんか細長いし。完全に蟹である。本の取り出し方も独特で、蟹を剥くように中身を押し出して取り出すのだ。蟹を読んでいる気分になる(?)。
これは、両手いっぱいにボールを持とうとする私です。展示の中でこれが一番嬉しかった。ボール1つ1つが愛おしく感じた。あとで写真を見て、にっこにこしすぎててちょっと自分で引いた。
ボールプール、皆さん最近入りましたか?
入らないですよね。入る機会もないし、これを読んでいる皆さんはおそらくそんな年じゃないでしょう。
しかし、です。ボールプールはいいぞ。
これを展示しようと企画した人に蟹贈りたい。旅先ってちょっと羽目外せるじゃないですか。インスタに上げる、というのもボールプールに入る口実になるかもしれないですね。建前が必要な皆さん、十分でしょう。
ボールプール、入りましょう。ボールプールの良さを再発見しましょう。
もちろん、ボールプールだけでなく展示内容そのものもとても素晴らしかった。特に「『本と温泉』本づくりのウラ話」のコーナーでは、どのような装丁や文字組にするのかメモした貴重な資料や、実際に企画をプレゼンした際の資料などが惜しげもなく展示されており、好きな人には堪らないと思う。
2階の常設展示もゆっくりと見て回って(志賀直哉が強靭な肉体を持っていることがよく伝わってきた。山手線の電車に轢かれてなんで死なないんだよ)、十分に満喫した私たちは正直もう、城崎でやることがなくなってしまった。
時刻は13時を回った頃。帰りのバスまで数時間はある。
いや、勘違いしないでほしい。城崎にはまだまだ見るべき観光スポットや行くべき場所やお店、食べるべきものはたくさんある。ただ、私たちは休養のためにここへ来たのだ。
さあ再び「何もしない」をする時がやってきた。
なにもしないをする
こんな時のための心強い味方、喫茶店。「コーヒーショップ ノバ」で一休みすることにする。
店内はそこそこの音量でジャズが絶えず流れており、完全に正解だと思った。こういう店の軽食は絶対美味いに決まっているので、ミックスサンドを注文。
ブレンドコーヒーと、カゴに載ったミックスサンドが運ばれてくる。玉子が分厚い。期待を全く裏切らない味。安心する。それに、コーヒーが今まで飲んだコーヒーの中でもかなり上位に美味しい。
店内の内装も可愛らしい。それに、やはり風景の画像を額に入れて飾っている。名店だ(私独自の基準)。
なぜかやたら入り組んだ造りをしていて、外から見て予想していたよりもたくさん席があった。インスタグラムの使い方をおじいさんに教えるおじいさんがいた。私たちと同じ観光客が少し休憩して出ていった。
良い。
音の波とコーヒーの香りに溺れて、ゆっくりと贅沢に時間を溶かした。
あなたは休んでいるか、帰っているか
たった一泊二日の旅だったけど、疲れはとても軽くなった。
温泉に入るたびにどんどん身体が軽くなっていくのが分かって面白かったし、身体との対話を邪魔するものの少ない温泉地というのはとても良いものだと思う。
最初にも似たようなことを書いたが、「休む」という行為はとても難しい。
余裕が無くなってしまった時のために、前もって「どうやって休養を取るか」は決めておいた方が良いのかもしれない。
その時になって疲れた頭でそれを考えようとしても、どうやったら自分が休めるのかさえ見失ってしまう気がする。
選択肢の一つとして、「自分の避難場所」をいくつか設けておくと良いのかもしれない。
『本と温泉』の湊かなえ「城崎へかえる」は、喪失感を抱えた女性が城崎を「訪れる」のではなく、そこへ「帰る」過程でその喪失感を埋めていく物語である。
この「帰る」という言葉がとても良いなと思う。
家は、稀に自分の帰る場所ではなくなることがある。
帰る場所、というのは言葉通り自分の生活スペースだったり、かつて住んでいた街であったり、実家であったり、行きつけの店であったり、はたまた人そのものであることもあると思うが、城崎は私にとってまた帰って来たいと思える場所だった。
また一つ、帰る場所が増えた。
帰りのバスに乗る。「旅帰りの感」という言葉をもう一度思い出す。
これは、小説家の父を持ち、自身も小説家になった女性が父との思い出を回想したエッセイに使用していた言葉なのだが、それが誰だったか思い出せない。
父はよく旅に出る人だったようで、帰ってきたときに家が汚いと不機嫌になるのだという。汚いといっても、普段どおりの部屋の様子であって、彼女ははじめ父がなぜそこまで不機嫌になるのかを理解できない。
ある日、父は彼女を連れて旅に出る。
長旅から帰ってきた彼女は、そこで気がつくのだ。旅から帰ってきた日の自分の家はいつもと変わらない様子であるが、なぜかそこに物足りなさを感じてしまうことに。様々を経て帰ってきた彼女にとっては、家に辿り着いた安堵はあるものの、その景色が色褪せて見えることに。
彼女は、旅から帰ってくる人間を出迎える際には、普段以上の「家」が用意されているとすんなりと日常に帰ってこられるのだと悟る。彼女は帰ってきた父へ、温かいお茶を淹れる。
確かこのような話だったと思うのだが、記憶で脚色してしまっている部分もあるかもしれない。
それはともかく、城崎を「帰る」場所であるとすると、少し熱めの温泉と、揺れる柳と、情緒あふれる街並みはいつでも私たちを温かく迎え入れてくれる。この「旅帰りの感」を十二分に味わうことができるだろう。
いつか、城崎へ帰ってみてほしい。
私は、今から帰ろうとしている床の見えない自分の部屋を思い返して、苦笑しながら眠りについた。
数時間後には、もう。
(はっか雫)