近年、京都は外国人観光客の人気が高くなっている。今では観光客の過半数がインバウンド層なのではないかと思ってしまうほどである。
彼らの目的は『日本らしい風景を見ること』。古くからの神社仏閣に着物で歩く舞妓さん、鬱蒼と茂る竹林や真っ赤に輝く紅葉は『日本らしい風景』の代名詞的と思われているようだ。
でも、日本らしい風景って本当に『それ』なんだろうか。
実際、日本で普遍的にみられる風景と言えば『住宅地』『田んぼ』くらいなモノだろう(都会育ちなら、『ビル』『ごちゃごちゃした道路・鉄道』と思うかもしれない)。
そう考えると、京都の街並みは異質なのだ。
あれだけ古い神社や寺院が点在しているまちなんて他にはない。あれだけ昔風の建物が並んでいるまちなんて他にはない。
そんなイレギュラーを、『日本らしい風景』と呼んで良いものか。
本当は『京都らしい風景』と呼ぶべきではないのか。
今の京都のまちを歩いていても、聞こえてくるのは中国語や英語ばかりで「ここは外国なのか?」と錯覚さえしてしまう。
『京都らしい風景』は変わってしまった。
『日本らしい風景』が求められすぎるあまり、京都のまちはもはや観光のテーマパークと化してしまったのだ。
あれだけの歴史文化がまちの中に息づいているのは、京都に住む人々がまちの誇りや価値観を大切に守ってきたからだった。
しかし、その「大切に守ってきたモノ」は『わかりやすい観光資源』として本来の意義や役割を顧みられることなく、ただ消費されている。
特に、本来は秘密の遊びをする場所だったはずの祇園では顕著だった。
昔ながらの街並みが立派に残る名所で、観光客による迷惑な自撮り、舞妓さんへの迷惑行為、ポイ捨て、バカ騒ぎが横行していたのだ。
結果として、地元住民たちは『写真撮影禁止』を表明。
自分たちのまちとプライドを守るためには仕方のないことだと思う。
全国のまちのほとんどがそうであるように、何らかの形で人が住む限りは「住宅地」が残り続ける。
そして、奈良の平城宮跡がそうであったように、放棄されたまちはやがて耕作地となり、最終的には荒野へと戻っていく。
つまり、本来の意味での『日本らしい風景』はそういう当たり前のモノであって、維持するのに大変な努力を要した京都の街並みのことではない。
行き過ぎた勘違いが歪みを生じさせてしまった。
わかりやすく言うと、リスペクトが足りない。歴史文化を守り伝えることがどれだけ困難なのか、理解できていない人が多すぎる。
『観光』はもっと丁寧に、慎重にすべき行為だ。あなたがその風景を見れているのは、先人たちのたゆまぬ努力があってこそ。あなたがその伝統を、想いを、壊してしまうかもしれない。
少なくとも、観光をする際には「そういう気持ちが必要なのだ」と理解しておく必要がある。