人は酒に溺れる。
疲れたとき、嫌なことがあったとき。楽しいことや祝いごとでも。ぼくたちは酒が飲みたくなる。コミュニケーションのため、はたまた一時の快楽のため。ぼくたちは酒に溺れてきた。
今日も日本列島各地でたくさんの人が酒を飲み、溺れている。
それは今だけじゃない。昔だってそうだ。ここで、こんな疑問が湧く。
日本人っていつから酒を飲み始めたんだろうな、って……。
謎のカギは青森にある
日本人と飲酒。その蜜月関係はいつ始まったのか。その謎を探るべく、ぼくは青森に向かった。
「いやいや、どうして青森なの?」と思われるかもしれない。
青森といえば、『津軽海峡冬景色』などの楽曲・文学によって散々「北のはずれ」の扱いを受けている。「文化がはじまる場所とは到底思えない」、というのが一般的な見方だろう。
しかし、ここ青森はかつて「日本列島の文化の中心」だった。何を隠そう、それは縄文時代のことである。
三内丸山遺跡の発見
1992年、県営野球場建設に先立つ大規模な発掘調査で、とんでもないモノが見つかった。「三内丸山遺跡」と呼ばれる縄文時代中期の大規模集落跡の発見だ。
見つかった建物跡の数は約800個。見つかった縄文土器・石器の数はダンボール箱で約4万個分に及ぶという。
これだけじゃない。縄文時代としてはめちゃくちゃ大型の建物(工房または集会場と考えられている)が10棟も見つかったほか、クリの木の巨大な柱×6本も検出されている。高度な土木技術が三内丸山の集落を支えていたわけだ。
しかも、遺跡の面積は東京ディズニーランドに匹敵する。さらに、周辺の縄文時代遺跡と地続きである可能性が非常に高いため、本来はもっと広大な集落があったとみて間違いない。
せっかくだから言葉を尽くそう。三内丸山の集落では、現在我々が稲作をするかのごとくクリの木を「栽培」し、収穫していたことがわかっている。そこに、陸奥湾の豊富な海産物とその他の自然採集物。彼らは相当豊かな食生活を送っていた……?
ともかく、縄文時代中期の三内丸山は日本随一の規模を誇る集落だった。縄文当時、日本で最も栄えていたのは青森だったんだ。
大地に残った「縄文の酒」
「そんなに栄えた場所ならば、お酒があったに違いない」
前置きが長くなったんだけど、今回ぼくが青森を訪ねた理由はそれ。しかも、集会場らしき建物もあるじゃない(学術的に認められたわけではありませんが……)。
そしたら見つけてしまった。
三内丸山遺跡で出土した「ニワトコの実」
さっき言った通り、三内丸山の縄文人はクリを栽培しつつ、巧みに漁労・採集をしながら暮らしていた。
ところで、山中に自生する植物の実のなかには、程よい糖分と酵母菌を自ら有する「果実」がある。三内丸山でも好んで採集されていた。
「ニワトコ」「ヤマブドウ」「サルナシ」。これらはアルコール分を生成する自然発酵が起きやすい果実として知られている。いわば、貯蔵するだけでお酒ができる果実。三内丸山では、それらの果実の種子が一括で出土したんだ!
とはいえ、これが本当に酒をつくっていた証拠になるかと言われれば微妙なところだろう。
お酒は液体である。それゆえ、地面に証拠が残らない。果実の種子が見つかったとて、それがお酒をつくっていた痕跡と言えるか。
そこにアルコールはあったか、なかったか。ただ果実を一時的に保管していたのか、お酒造りが目的だったのか。
ムシが証明した「お酒づくり」
最後のピースはムシが証明してくれる。ムシ、つまり昆虫。
「え、そんなものがどうして?」と思われることでしょうね。
いやいや、みなさんにこんな経験はないだろうか。
自宅のキッチンにコバエが湧く。
正直、ぼくは毎年悩まされている。
種類にもよるのだけれど、コバエは発酵・腐敗が大好き。特に発酵の働きで生成されたアルコールには興味津々で、めっちゃ湧く。ホントにめっちゃ湧く……(涙)。
アルコール、お酒は土の中にしみ込んだり揮発したりと残存しにくい。だけど、コバエは(特にコバエの蛹は)発掘調査でも比較的見つかりやすい。特に、コバエの蛹は結構丈夫なのだ。
(写真は載せないことにしました)
そう、お察しの通り、三内丸山遺跡の「果実の種子が見つかった場所」からはコバエの痕跡も見つかっている。コバエの存在はそこにアルコールが存在したこと、つまりお酒がつくられていたことを傍証する……!
縄文人はどんな時に酒を飲んだのか
ここまで述べてきたように、どうやら三内丸山遺跡ではお酒をつくっていたらしい。果実でつくるお酒だから、さながら「縄文のワイン」といったところだろう。
ところで、三内丸山の縄文人はどんな場面でお酒を飲んでいたのか。ここから先は本当に想像の世界だけど、少なくとも2つ思い浮かぶ。
それは「感謝」と「祈り」。
なぜ、「酒」なのか。
酒の最大にして最強の特徴は、アルコール成分による「酔い」だ。頭がポーっとして、愉悦に浸り、余計なことが考えられなくなる。
ぼくはこの「酔い」が、神の世界に近づく行為として認識されていたのではないかと思う。
さらに言えば、縄文人は発酵とか科学とか知らないわけだから、果実からアルコールが生成される過程を「神の仕業」と考えていたとしてもおかしくはない。
そして、その液体を飲んだら「酔う」わけだ。大いなる自然の力に近づき、飲み込まれるような、そんな心地。
神がつくってくれた不思議な飲み物で「酔い」、大いなる自然とコンタクトをはかる。祝いごとがあれば自然に感謝し、悲しいことがあれば自然に祈る。
あくまで想像にすぎないが、縄文人はこうして自然への感謝と祈りをささげていたのかもしれないよ。
「めでたく子ができました。食べ物も潤沢です。ありがとうございます」
「来年もいっぱい食べ物が手に入りますように。病気が治癒しますように。無事に出産できますように……」
こうした願いもあれば、人の死を悼んで飲むようなこともあっただろう。三内丸山遺跡では大人の墓地のほか子どもの墓地とされる場所も検出されている。
今のような医療が無い時代、子どもは絶えず死のリスクにさらされていた。幼子を失った親の悲しみ、亡くなった子をしのぶ気持ちをもって酒を飲んでいたとて不思議ではない。
自然に還った我が子に、安らかに眠れと祈る。それはいつの時代も同じだろう。
東北と縄文と酒
東北の酒はうまい。そして、東北人には酒好きが多い。
これはもちろん、東北が日本有数の米どころだから、であろう。食べ物がうまい場所では、酒も自然とうまくなる。根拠はないけどそんな感じだ。
でも、それだけじゃない。ぼくはここに、縄文のDNAが関わっているとみた。
というのも、人類学の研究により、縄文系のDNAをもつ人は酒に強く、弥生系(渡来系)のDNAを持つ人は酒に弱いとの事実がわかってきたからだ。
青森の三内丸山遺跡に代表されるように、東北は縄文時代の遺跡の宝庫である。今では田舎と揶揄されることの多い東北も、縄文時代には最も栄えた場所だった。
それが直接的な理由なのか、東北では弥生時代に入っても稲作の開始が限定的で、縄文の暮らしが比較的長く続くことになる。現代では米どころなのに、不思議なもんだな。
当然、人口比でみれば「縄文人」の割合が高く、稲作技術をもった弥生系の人々は少なかったはずだ。
つまり、DNA研究と合わせて考えると、東北には酒が強い人が多いのも納得できる。だから東北人はお酒に強くて、それゆえにお酒が好きなんじゃないか?
縄文人は、遺伝的にもお酒に強かった。それが、三内丸山でお酒がつくられはじめた遠因なのかもしれない。そして、その飲酒文化は、東北人のDNAにしっかりと刻まれている。
今日も人は酒に溺れる
人は酒に溺れる。
しかし、縄文人たちは、その溺れる行為に感謝した。
大いなる自然の営みが酒をつくり、「溺れ」すなわち「酔い」をもたらす。その「酔い」をもって、大いなる自然に祈る。ここに、アニミズムの循環が起きていたわけだ。
さあ、今日くらいは、自然の営みに感謝しながら一杯飲もうじゃないか。日本の飲酒文化を最初に生み出した縄文人。彼らに想いを馳せながら飲む酒も、悪くないだろう。