大阪大学の学生街「石橋」はなぜ発展した?まちの「東西差」を探る

歴史

大阪大学豊中キャンパスから「阪大坂」を下ると、『石橋』のまちにたどり着く。

多くの学生が住まい、学生価格の飲食店・居酒屋が集う、いわゆる学生街だ。

2019年10月には阪急石橋駅が「阪急石橋阪大前駅」に改名するなど、これまでより一層学生街としての性格を強める出来事もあった。

しかし、石橋のまちは単なる学生街に止まらない。

石橋には北摂地域で最大とされる商店街や、北摂一の歓楽街と称される飲み屋街が広がっている。

 

一体なぜこれほど石橋のまちは発展したのだろうか?

 

この発展を単純に語ることはできない。なぜなら、駅の東西で「まちの発展のありかた」が異なるからである。

本記事では、大阪大学の学生街・石橋のまちの歴史について簡単な考察をしていきたい。

石橋のまちのディープな部分に触れる関係上、筆者の曲解誤解が多いに含まれる可能性があります。執筆にあたっては十分な取材を行っていますが、誤りがあればお知らせください。
大阪大学トイレ研究会様よりご指摘いただき、一部を訂正させていただいております!ご連絡&ご指摘ありがとうございましたm(__)m
本記事に石橋の皆様を攻撃する意図はございません。あらかじめご了承ください。

「石橋」の地名の由来

石橋の名前は、この地が古くから2つの街道―京都方面へ向かう「西国街道」と川西・能勢方面へ向かう「能勢街道」の結節点であったことに由来する。

その名残が現在の石橋阪大前駅から数百メートル離れた場所にある。

今は踏切となっているが、かつてここに『石の橋』が架かっていた。

これが「石橋」の地名の由来とされている。

 

時は現在。西国街道国道171号線に、能勢街道国道176号線に姿を変えた。それでもなお、石橋は2つの重要な国道の交点だ。

今から約130年前に阪急電鉄(の前身)が開業した際も宝塚本線箕面線分岐が石橋駅に置かれた。石橋は何かと『結節点』に恵まれる土地柄なのかもしれない。

道と道が交わる点には様々な人・モノ・情報が集う。石橋の発展の礎はまさに『結節点』にあり、その要素が後にまちの性格を大きく分断することになる。

 

現代の「石橋のまち」

「石橋と言えば?」と問われて思い浮かべる光景は十人十色だろう。

駅の西側には石橋商店街が広がり、東側にはネオンサイン輝く飲み屋街が広がっている。南側には閑静な住宅街・マンション街。エリアによってずいぶん様子が異なる。

なぜこんな違いが生まれたのだろうか?

 

端的に言えば、『結節点』の一つである鉄道の存在が大きい。線路はまちを分断する。河川と同じで簡単には渡れない。同じ「まち」であっても交流の支障となる。

地方に行くともっと顕著だ。線路の片側には家々が立ち並び、もう片側は一面の田んぼ……なんてこともよくある。

 

ある意味、石橋でも同様のことが起こっている。

 

先ほど述べた通り、駅の西側東側ではまちの様子が全然違うのだ。一つの「まち」の中でこんなに違うのも珍しい。

石橋阪大前駅西口。こちらは商店街側だ。

まちの性格の東西差……この原因は戦後社会の混乱の中にあったと推測されている。

タイトルとURLをコピーしました