大阪大学の学生街「石橋」はなぜ発展した?まちの「東西差」を探る

歴史

西口:戦後闇市と商店街

日中はオリジナルソングが流れ、買い物に来た人々がおしゃべりしながら闊歩する。学生向けの安くて美味しい飲食店も多い。筆者にとって石橋商店街「明るく元気なまち」である。

1930年代には病院や商店が駅前に立ち並んでいたと聞く。詳細は不明だが、100年前後の歴史を持っている商店街なのだ。

 

そんな石橋商店街発展のきっかけ「戦後の闇市」にあることはあまり知られていない。

 

戦後まもなく、大阪をはじめとする大都市の各エリアには「闇市」が広がっていた。石橋駅の西側もその例に漏れない。国の統制を外れた食料・酒などの物資が違法に販売されていたのだ。

「闇市」とは言うものの、決して悪ではないことを強調しておく。配給だけでは何もかもが足りない中で、貧しい庶民のために開かれていたのが闇市だった。当時のことを「闇市でお腹が満たされた」と懐古する人も多いと聞く。とにかく、石橋の闇市も多いに栄えたはずだ。

東京・新橋の闇市(Wikipediaより)

これをよく思わなかったのが当時の大阪府警だった。「闇市は朝鮮人の巣窟(※詳細不明)」などと差別的な号令をかけ、闇市を一斉に排除する流れが始まる。しかし実態はイタチごっこに次ぐイタチごっこで、闇市の需要は中々消えなかったらしい。庶民による庶民のための市だったのだから当然であろう。


警察の取り締まりを受ける闇市(Wikipediaより)

そのうち「戦後」が終わると、闇市は徐々に消える商店街として残ることとなった。石橋のようにもともとある程度商店が並んでいた場所では、後述するような一部の定着者を除けば、概ね通常の商店街によって淘汰され組み込まれていったらしい。

 

闇市の存在がまちの結束を高め、まちを大きくするきっかけになったのだった。

 

今ではもちろん当時の面影などほとんど残っていない。まちの外れに一部の闇市定着者の名残と思われる「エラく古い違法建築」が見られるくらいだろうか。

 

東口:飲み屋街は米軍占領時代の名残?

「北摂一の歓楽街」と称される石橋の飲み屋街。店舗の多くは駅東口周辺にかたまって営業している。

 

この飲み屋街も西口と同様戦後に発展したモノらしい。

 

戦後すぐ、現在の大阪(伊丹)空港は米軍の飛行場として使用されていた。戦後日本を統制していたGHQの拠点の一つだったのだ。周辺には相当数のアメリカ人が生活していたのだと言う。

伊丹空港から飛び立つ飛行機。

空港からほど近い石橋エリアに飲み屋街ができたのは、その占領時代にアメリカ人の需要があったから……との説がある。戦後、消費が冷え込んでいた時代においてお酒などの嗜好品にお金を使えたのは日本人ではなかったはずだ。アメリカ人が関係していたとしても不思議ではない。

 

ただし、なぜ石橋の東側に?という疑問は残ってしまう。線路をまたいですぐに闇市が広がっているような場所だ。戦争の傷も冷めやらぬ中、すぐそばでアメリカ人が楽しむための場所が整備されたとは考えにくいのではないだろうか。

石橋駅近辺には居酒屋がマジで多い。

石橋阪大前駅のお隣、蛍池でも似たような噂があった。

「現在は1軒のみになっているが、戦後には数件のラ〇ホテルが蛍池にあって、それは米軍の需要によってできたらしい」

地元では本当であるかのように話されていたとのことであるが、この話も現在では根拠のないデマだったと言われている。

蛍池の風景。

石橋の場合も同様で、飲み屋街の発展と米軍の関係性はあまり無さそうというのが正直なところだ。

 

では実際どうだったのか。

闇市の時代から少し遅れて、商店街が大きくなり始めた時期のことだった。駅の東側に在日朝鮮人の方々が集住し、居酒屋やスナックを経営し始めたのだと言う。あまり多くの情報を得られなかったので断言することは避けたいが、「闇市の担い手」のその後の姿だったのかもしれない。

 

これはあくまで「まちの興り」の文脈だ。現在でも半島や大陸にルーツを持つようなお店もあるにはあるが、決して多くない。

実際に東口の飲み屋街が現在のように発展したのは高度経済成長期ではなかろうか。万博関連で北摂地域一帯の開発が進んだ時代。大阪大学が豊中キャンパスを大々的に整備し始めたのも同じ時期だった。

 

しばしば触れてきたように、石橋は『結節点』である。労働者が北摂に多く集っていた時代であれば、石橋にも多くの労働者が訪れていたに違いない。希望的観測ではあるが、戦後米軍の需要よりも高度経済成長期の開発労働者の需要を重く見たい。

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