瀬戸内海を見下ろす小高い丘に、心地よい風が吹き抜ける。ここは小豆島の南西部に位置する「富丘八幡神社」。
この丘にあるのは神社だけではない。なんと、無数の古墳が確認されている。
結論からいえば、両者が無縁とは思えない。なぜなら、古墳と神社の位置が極めて近接しているからだ。
果たして、小豆島における古墳と神社の関係性とは。
富丘八幡神社における応神天皇伝説
富丘八幡神社は、小豆島の南西部・土庄町双子浦の丘陵頂上に位置している。
この神社の祭神は「八幡神」。言わずと知れた武運の神で、かつては武士からの信仰も篤かった。
しかし、小豆島にそこまで大きな戦いの歴史はない。ではなぜ、ここに「武運の神」である八幡神が祭られているのだろうか。
八幡神=応神天皇
話は日本神話(=『古事記』『日本書紀』)まで遡る。
そもそも八幡神は、神話において最初から神として登場していたわけではなく、もとは一人の人物=「応神天皇」であった。
応神天皇は古墳時代中期前半にて実在した可能性のあるヤマト政権の大王で、『古事記』『日本書紀』上では第16代の天皇とされる。
応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(大阪府)
そんな応神天皇が後の時代になって信仰を集め、いつしか「八幡神」と呼ばれるようになった。富丘八幡神社で祀られているのも、この八幡神=応神天皇だ。
応神天皇と小豆島
その応神天皇が小豆島を訪ねたとの伝説がある。実はこれが、富丘八幡神社で「八幡神」を祀るようになった理由とされている。
(応神天皇二十二年秋九月)天皇便自淡路轉、以幸吉備、遊于小豆嶋。
ざっくり現代語訳:天皇は淡路島から吉備と小豆島に周遊した。
文字量にしてたったの一行程度だろう。それでも、この伝説は小豆島の各地で語り継がれた。
民間伝承によると、応神天皇が最初に上陸したのは小豆島の双子浦だったという。富丘八幡神社の周辺だ。
応神天皇がこの地に上陸したことを示す記念碑(双子浦周辺)
こうした縁がもとで、富丘八幡神社の祭神は八幡神=応神天皇になった。
ただし、これは「富丘八幡神社の祭神が八幡神である理由の説明」に過ぎない。というのも、富丘の丘陵に神社が作られた理由は別にあると考えられるからだ。
筆者は、その理由こそ「古墳」にあると睨んでいる。
富丘古墳群の「山頂古墳」
小豆島随一の古墳群・富丘古墳群は、富丘八幡神社と同じ丘陵上に点在する古墳の総称だ。
古墳と言っても土がポコンと盛り上がっている程度
古墳群とはいっても、近畿地方の大型前方後円墳とは全く様相が異なる。富丘古墳群内の古墳の多くは直径十数メートル程度の円墳。墳丘の高さも低めで、言われなければ古墳と気づくのは難しい。
山頂の古墳
小円墳ばかりの富丘古墳群のなかでも、注目すべき古墳が山頂に存在している。その古墳は通称「山頂古墳」と呼ばれており、過去には発掘調査もあった。
山頂古墳の上には記念碑と祠がある
たしかに、富丘古墳群の「山頂古墳」もわずか径20m程度で、さほど大きな古墳ではない。しかしながら、出土した副葬品はなかなかに豪華だった。
繊細な装飾を持つ銅鏡、多数の鉄製品。どれも、ヤマト政権の大王との交流をうかがわせる品々である。相当な権力を持った人物のお墓であることがわかる。
それらの出土品から推察される山頂古墳の年代は4世紀末ごろ。実は、富丘古墳群内で最も古く豪華な古墳が「山頂古墳」なのだ。
つまり、「山頂古墳」の主は、古墳時代の富丘にお墓を築いた一族の偉大な始祖であったといえよう。