年代が合わない!?
『尾鷲神社は西暦701~703年ごろに播磨国(兵庫県南西部)の「廣峯神社」から神様をご招待して創建された』
この伝承を信じるならば、尾鷲神社の創建より前の時代に兵庫県の「廣峯神社」が存在していたことになります。
そこで、廣峯神社の創建年を調べてみると……正確な記録(『日本三代実録』)に登場するのは西暦866年(平安時代)、古く遡っても733年(奈良時代)らしいんです。
年代がッ……合わないッ!
多く見積もれば150年以上、どんなに少なく見積もっても30年程度の差が生じてしまいます。
廣峯神社の神様をご招待して成立したはずの尾鷲神社が、廣峯神社よりも古い……?
調べてみると、この謎を解くカギが江戸時代の文書に残っているのだといいます。果たして真相は??
『播磨鑑』によると……
江戸時代、現在の兵庫県加古川市に住んでいた医師「平野庸脩(ひらの ようしゅう)」さんが書いたとされる『播磨鑑』という文書をご存じでしょうか。
※イメージ
僕は全然知りませんでした。
『播磨鑑』は、播磨国の歴史・地理・名所などを平野さんが細か~く書き残した本。そこには、由緒正しき廣峯神社についても記載があるんです。
『崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛尊を奉斉し……』
現代語に訳せば、『崇神天皇(西暦200~300年ごろ?の天皇)の時代に廣峯山に神社を建てて、スサノオノミコトやイソタケルノミコトっていう神様を祀ったぽよ~』ってな感じ。
なるほど!つまり平野さんの見解に従えば、廣峯神社の創建は西暦で言うと200~300年ごろらしい。それなら……尾鷲神社よりも廣峯神社のほうが古いことになり、尾鷲神社の創建伝説も成立します。
いやいや、こんなに虫のいい話があってたまるかよ……!
歴史的な文書の信ぴょう性の高さは、主に「起こった出来事」と「その記録」の年代差によって決まります。
例えば、本能寺の変が起こった際の記録の話では……
1.本能寺の変を目撃した人がその日のうちに書いた記録
2.本能寺の変を友人から聞いて知った人が十年後に書いた記録
この場合は1.のほうが正しい記録である可能性が高いんです。
噂話って時間を経るごとにどんどん変わっていくじゃないですか。あれと同じです。
で、話を廣峯神社に戻しましょう。
平野庸脩さんは江戸時代の人物。江戸時代の人物が、「廣峯神社の創建年代は西暦200~300年だ」と言っている……どう考えても1000年以上開きがありますよね。
しかも、西暦200~300年ごろ(弥生時代~古墳時代)はほとんど文字記録が残っていない謎の時代です。廣峯神社がその時代に存在したかどうかなんて誰にもわかりっこないんですよ。
というわけで……廣峯神社は通説通り奈良時代または平安時代に創建されたと考えるのが妥当でしょう。
では尾鷲神社の創建伝説は一体……?
結論:謎は謎のままでいい?
『廣峯神社の影響を受けて成立したはずの尾鷲神社。しかし、どう考えても尾鷲神社のほうが廣峯神社よりも古いらしい……』
どう検証しても、この謎は謎のままで終わりそうです。
尾鷲神社のクスノキの幹、太い!
尾鷲神社の創建伝説もあくまで「口伝え」ですから、何か致命的な間違いがあっても何も不思議ではありませんが……確かめる術が無いのも事実。
新しい情報が出てこない限り、「尾鷲神社と廣峯神社、どっちの神社が古いのか問題」は解決しないでしょう……!!
でも、それでいいんです!!!
尾鷲神社が地域の人から大切にされている様子は『ヤーヤ祭り』の写真を見ればすぐにわかります。「創建がいつなのか?」といった問題よりも大事なのは、神社が地域内のつながりを守ってくれる場所であるかどうかだと僕は思うので……!!!
てか……雨、降ってほしかったな……
めっちゃ晴れてました。。。
(コフンねこ)