甲山の神社仏閣と「鬼門」
「道」をどうやって整備したのか。
そんなもんは正直言って記録に残りにくいので、なにを言おうと確たる証拠は得られない話になってしまう。
でも。岡山県倉敷市の美観地区や山形県米沢市の城下町など、山や丘陵から見下ろす形で道を割り付けていったまちは決して少なくない。
倉敷の街並み。丘陵をぐるりと囲むように整備された道と、水路に沿う真っすぐな道。
まあ、岡崎の場合「そんな丘陵にたまたま古墳があっただけ」とも考えられる。
うーん。
でも、なんとなくこれは偶然じゃない気がするんですよ。
だからちょっとここからは、神話とか陰陽道とか、少しオカルトっぽい方向で話を進めようかな。苦手な方はブラウザバックをお願いします。
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甲山1号墳には、『甲山八幡宮』と『甲山寺』が隣接している。
『甲山八幡宮』
『甲山寺』
これらの寺社はもともと別の場所にあって、おおよそ戦国時代に今の場所に遷ってきた。
その遷ってきた理由がとても示唆的である。
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みなさんは「鬼門(きもん)」って知ってますか。
昨今流行りの『鬼〇の刃』のことではなくて、陰陽道的に縁起が悪いとされる「北東方向」を指す言葉です。
で、岡崎城から見ると甲山のところがちょうど「鬼門」の方向なのよ。
縁起の悪い鬼門。
ここからは憶測になるのだけれど、甲山の古墳もある意味「おそれ」の対象だったかもしれない。
岡崎城のお殿様から見て鬼門の方向に、なにやら地域のご先祖様のお墓があるじゃないか。
これは丁寧にお祀りしなければ……!
ひとつは縁起の悪い鬼門を縁起の良い方向にする目的で。そしてもうひとつ、かの地にある古墳の御霊を鎮める目的で。そのために、わざわざ別の場所にあった神社仏閣が甲山に遷された?(推測ですが)。
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甲山の丘陵は、お殿様による計画的なまちづくりの一部に含まれていた(陰陽道的な意味で)。その証拠が、岡崎城の鬼門方向を鎮める神社仏閣の存在である。
では、なぜ岡崎ではこんなにも「鬼門」が意識されたのだろうか。
視野を日本全国のレベルに拡大してみよう。
なんと、日本のトップオブ神社こと『伊勢神宮』から見て、岡崎はちょうど「鬼門」にあたる。
つまり、岡崎のまちの鬼門=甲山は「鬼門の鬼門」になるじゃないですか。しかもそこに昔の王の墓ですよ。この組み合わせがヤバくない?神社仏閣、必要よね。
岡崎城に設けられた鳥居は、伊勢神宮を拝むもの。
古い歴史を持ち、伊勢や東北とつながりを持つ『六所神社(岡崎市)』。
そりゃ、岡崎のお殿様は嫌でも意識するよね。甲山のことを。
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ここで一瞬、「道」の話に戻りましょう。
岡崎の「道」が甲山から見下ろす形で整備されている(と思われる)のも、ただ単に「道を割り付けるのに便利な丘陵だったから」だけじゃないはずだな、と。
岡崎の「道」。
『甲山寺』と古墳は隣接している……。
「鬼門の鬼門」であり、かつての岡崎の王が眠る丘陵。そんな場所から道を整備していくことには、なにか特別な意味があったのではないでしょうか。
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ここで少し立ち止まってみる。
これらはすべて、「家康誕生以前」に起こったことだ。
筆者はこれこそが岡崎の特徴だと考えている。
ややオカルトチックな結論を言えば。
昔の岡崎の人は、「鬼門」に存在する丘陵とそのてっぺんのご先祖様のお墓=古墳を徹底的に祀った。そしてそのパワーは、丘陵から引いた「道」に宿っているかもしれない。
お味噌も家康以前のカルチャーです。
繰り返すが、これは家康以前の岡崎のカルチャー……!