小豆島・富丘八幡神社と富丘古墳群の関係性を考察する【古墳と神社】

古墳と○○

富丘古墳群と祖先信仰

偉大な祖先を神とみなし、地域の統合を図る。

それは富丘古墳群の場合も同様だ。それぞれの古墳の立地をみる限り、富丘に古墳を築いた一族は偉大な始祖の墓である「山頂古墳」を強く意識している。加えて、「山頂古墳」の目の前には立派な神社=富丘八幡神社が。

これは、日本神話や古墳時代の祖先信仰の形が受け継がれた結果ではないか。

……小豆島に古墳が作られなくなっても、「山頂古墳」に眠る共通の祖先を「神」として信仰する文化だけが残った。そこで、後の子孫は山頂古墳の眼前に神社を建立した。おおよそこのようなストーリーが浮かぶ。

 

なぜ祭神が八幡神に?

するとここで気になるのは、「なぜ祖先を祀っているはずの神社の祭神が全国共通の“八幡神”なのか」だ。

富丘古墳群と富丘八幡神社の縁起を記す解説看板

冒頭に述べた通り、八幡神とは日本神話に出てくる応神天皇のことである。そして、その応神天皇が実際に小豆島を訪ねたとの伝承が残っている。これらのことから、富丘の神社の祭神は「八幡神」となった。これが通説。

しかし、富丘古墳群と富丘八幡神社の位置関係と日本の「祖先信仰」の伝統をみる限り、当初の富丘八幡神社が「山頂古墳に葬られた祖先を祀る神社」であった可能性は否定できない。

 

「山頂古墳」とヤマト政権

この矛盾を解決する答えとして、筆者は「応神天皇の小豆島行幸伝説のルーツ」に注目したい。

富丘古墳群「山頂古墳」の出土品には多数の鉄製品や絢爛な装飾をもつ銅鏡が含まれる。

これらは、当時の中央政権であるヤマト政権の大王と関係を結んでいなければなかなか入手できなかった品々だ。したがって、「山頂古墳」の主はヤマト政権と直接つながっていたのだろう。

近畿地方と小豆島の結びつきは強く、かつて小豆島は石材の入手元でもあった

ただし、神話に記されている通りの応神天皇が本当に実在したかはわからない。一方で、応神天皇のモデルとなった人物はほぼ間違いなくヤマト政権の大王であった。

翻って、「応神天皇の小豆島行幸伝説」は、富丘古墳群「山頂古墳」の被葬者とヤマト政権との交流を示すエピソードとも解釈できる。

ここまでの考察を簡潔にまとめると、このようになる。

0.ヤマト政権の大王と小豆島の有力者の交流(=「応神天皇の小豆島行幸伝説」の起源)
1.ヤマト政権と交流のあった小豆島の有力者が「山頂古墳」に葬られる(4世紀末)。
2.子孫が「山頂古墳」を慕って同じ丘陵に脈々と古墳を築き続ける(5世紀~6世紀?)。
3.いつしか「山頂古墳」を祀る神社が建立される(時期不明)。
4.応神天皇の小豆島行幸伝説と神社が結びつき、神社の祭神が「八幡神」に(時期不明)。

 

小豆島を見守る「古墳と神社」

瀬戸内海を見下ろす小高い丘に、心地よい風が吹き抜ける。

古墳から海を見下ろす

筆者の考察によると、小豆島の南西部に位置する富丘八幡神社は、もともと古墳を祀る神社であった可能性が高い。それは、かつての日本人が持ち合わせていた「祖先を“神”とする祖先信仰」が具現化した形であった。

そして、その祖先信仰が「応神天皇の小豆島行幸伝説」と結びつき、富丘八幡神社の祭神が祖先から「八幡神」へと移行することに。しかし、その応神天皇の伝説もまた、山頂古墳の被葬者とヤマト政権とのな交流を示すエピソードなのかもしれない。

神社からは有名観光地・エンジェルロードの姿も見える

結局のところ、もしもこの考察が正しければ、富丘八幡神社と富丘古墳群の関係性はすべて「祖先信仰」で説明できる。

……小豆島の小高い丘から、かつてこの島に住んでいた祖先の姿を垣間見た。彼らは現代でも、瀬戸内の心地よい風が吹き抜ける神社を通して、小豆島に住まう人々を見守っているのかもしれない。

(コフンねこ)

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