『倉垣遺跡』から出土した土器のなぞ
『倉垣遺跡』が眠る
秋鹿酒造の眼前には田んぼが広がっていて、その合間にぽつぽつと家がある。その田んぼのうちのいくつかが秋鹿酒造の所有する無農薬自営田。
注目すべきは、その地面の下に埋まっている「遺跡」だ。
秋鹿酒造の眼下にはとめどなく田んぼが続く。
秋鹿酒造が位置する能勢町倉垣地区は、『倉垣遺跡』と呼ばれる、弥生時代から続く集落遺跡だった。
つまり、能勢町の秋鹿酒造周辺には、弥生時代以来なんらかの形で人の営みが存在していたのである。そしてその生活の一部に、「酒造」があった可能性がある。
倉垣遺跡から出土した「甑」と「甕」
能勢町は比較的古墳の多い地域だ。古墳は当時(今から約1750~1300年前)の有力者のお墓であるから、その有力者を中心にある程度の人数が能勢に住んでいたことになる。
それもそのはず。
倉垣遺跡から古墳時代の住居跡もいくつか発見された。古墳時代の倉垣地区にも、現在と同様に人々が生活していたのだ。
もっと言うと、古墳時代の水田跡とみられる遺構も検出されたと聞く。したがって、古墳時代の倉垣では、人々が自ら農業を営みつつ生活していたことがわかる。
さらに面白いのが、その古墳時代住居跡から出土した土器だった。
「甑(こしき)」と「甕(かめ)」。
甑(Wikipediaより)。
甑はいわゆる炊飯器にあたる。甑とはすなわち蒸し器のことで、古墳時代当時はお米を蒸すのが一般的なやり方だった。
甕。
そして、甕は貯蔵容器にあたる。液体や固体を入れておく大型の容器としての用途がメイン。「みずがめ」などと呼ぶとピンとくるかもしれない。
残念ながら、学問的に言えるのはココまで。
「お米を蒸していたのだろう」「何かを貯蔵していたのだろう」までは言及できても、「どんなふうに食べていたのか」「具体的に何を貯蔵していたのか」までは(中身が残っていない限り)わからない。
結局のところ、遺跡や土器などを扱う考古学では、出土品の「なんとなくの使い道」を推察するにとどまってしまう。具体的な使い方はわからないまま。謎は謎のままだ。
こうした状況ながら、ぼくは倉垣遺跡から出土したこれらの「甑」「甕」を酒造道具だと考えている。
そう、『倉垣地区でのお酒づくりの歴史は古墳時代にまでさかのぼる』(可能性が高い!)。
考古学だけでは判断が難しい。けれども、醸造蔵を訪ね歩いて得た経験や、生物学・民俗学の知識からはそう言える。
まずは「甑」や「甕」が日本酒の醸造に果たす役割についてみていこう。
日本酒づくりのプロセスと土器
「甑」と「甕」の現在形
実を言うと、「甑」と「甕」は現在でも酒造メーカーで使用されている。もちろん、古墳時代当時と現在とではずいぶん姿かたちを変えているのだが。
「甑」はいまでも酒蔵の中心に据えられている。蒸米が主な原料となる日本酒づくりにおいて、甑の存在は必要不可欠だからだ。
機械式の甑。このなかで大量のお米が蒸されている。
現在の機械式の甑は、古墳時代の土器の甑と比べて非常にサイズが大きく、熱効率もいい。しかしながら、その呼び名や日本酒づくりにおける役割は全く変わっていない。当時も今も重要な道具であることがうかがえる。
一方の「甕」は今、木桶やタンクといった非常に大型の容器に置き換わった。
主な役割は貯蔵・熟成。その点に変化はない。しかし、容量の大きい容器を使えば大量のお酒をつくることができる。効率を求めて姿かたちが全く変わった。
甕は甕で土器のなかでは相当大型の製品なのだけれど、木桶やタンクには及ばない。したがって、近年ではめっきりお役御免となった。
このように、「甑」と「甕」は現代の酒蔵でも(姿かたちを変えて)残っている。まずはここから、古墳時代の「甑」と「甕」も、同じように酒造で使われていた可能性を指摘したい。
日本酒づくりには「発酵」が欠かせない
なぜ「甑」や「甕」が酒造道具といえるのか。果たしてどんな役割を持っていたのか。
大雑把に言うと、日本酒の製造には微生物の働きが欠かせないからだ。微生物の働き=「発酵」が、日本酒のアルコール・味わい・色合いを形成している。
そう、「甑」や「甕」は発酵を促すために必要な道具なのである。
そこで、まずは微生物の働きからみていこう。
とくに、日本酒づくりにおいては主に2つの菌が発酵の担い手となる。
1つは炭水化物を分解し糖分を生み出す『麹菌(こうじきん)』、もう1つは糖分からアルコールを生成する『酵母菌(こうぼきん)』(その他乳酸菌やらなんやらも活発に動く)。
つまり、日本酒は、
といったかたちで完成していく(だいぶ雑にまとめたけれど……)。
ただし、日本酒づくりの場合、何もせずに菌が働きはじめることはない。「調理」と「貯蔵」が必要になってくる。現代では高度な道具を使って調理と貯蔵を行うけれど、かつては全て土器を使って行われていた。
「蒸し調理」と甑
日本酒づくりに用いられる「麹菌」は、『二ホンコウジカビ』と呼ばれる日本固有のカビの一種だ。この『二ホンコウジカビ』には奇妙な性質があって、特定の条件下でのみ「お米」に繁殖する(そして、お米が甘くなる)。
その特定の条件とは……「蒸し調理」。
日本の麹菌は、蒸した穀物に「だけ」繁殖する奇妙な微生物。したがって、日本酒の原材料である「米麹」を入手するには、絶対に蒸し調理が必要となる。煮炊きではダメ。「蒸す道具」が要る。
実は、日本最初の「蒸す道具」は(倉垣遺跡でも出土した)土器の「甑」である。「甑」は、日本では古墳時代に初めて登場した土器。日本における蒸し調理は、古墳時代に生まれて古墳時代に拡散した調理方法なのだ。
つまり、「麹菌を用いた日本酒づくりのルーツは古墳時代(の甑)に求められる」、と言えよう。
古墳時代にはじめて生まれた「蒸米」の概念。今ではお赤飯や酒造など、限られた場面でしか見かけない。
「甑」がもたらしたインパクトは相当に大きい。だって、蒸し調理がなければ、日本人が今知る形の日本酒は存在しないのだから(ついでに言うと、製造に麹菌の活動を必要とする醤油・味噌・酢・焼酎・味醂なども存在しないことになる)。
酵母菌の活動と甕
米麹と水を混ぜただけでは、ただの甘い液体の状態のまま。そこに酵母菌が作用してはじめてアルコールが生成され、甘い液体がお酒へと変貌を遂げる。
ここで考えるべきは「容量」の問題だ。
米麹と水を混ぜた液体は、お米単体の場合と比べて非常に体積が増える。また、酵母菌の活動は麹菌の活動と比べても長い時間を要する。
人と比べてもタンクは非常に大型だ。
したがって、「甘い液体」を長期間にわたって貯蔵・熟成する大型の容器が必要となる。
この点において、古墳時代の甕は一つの革命だった。
前時代の甕と比べて、まずは容量が大きくなった。加えて耐水性も増した。
甕は古墳に設置されることも。お酒を使用した儀式などで使用された場面もあった?
長期にわたって酵母菌が十分に活動できて、なおかつ大量のお酒を仕込めるだけの容器。それは古墳時代に初めて登場した……!
「甑」と「甕」がセットで出土する意味
ここまで、
を説いた。
つまり、古墳時代の「甑」と「甕」には酒造道具としての用途もあった、と結論付けられる。
だからといって、遺跡から出土する甑や甕がすべて酒造道具だったかと言えばそうではない。
当時の主食は蒸米だったから、甑は単純な炊飯器として。容量の大きい甕は、お酒ではなくともあらゆる液体・固体の貯蔵に向いていた。
しかし、「甑と甕がセットで出土する」場合は酒造の可能性が否定できない。なぜなら、単独ではできないことが2つそろうと新たにできるようになるからだ。
※倉垣遺跡出土の土器ではありません
日本酒づくりには2つの菌による発酵が必要となる。そのプロセスにしたがって、道具も2種類必要となる。甑と甕の2つがそろうと、その用途に『酒造』が加わる……!
そして!能勢町の倉垣遺跡では甑と甕の2つがそろって出土した。したがって、古墳時代の倉垣地区では、人々がいつでも日本酒を製造できる状態だったと言える。