倉垣地区の生活とお酒
能勢の「歌垣山」で合コン?
古墳時代の倉垣地区でお酒がつくられていた可能性。
これは、文献の記述からも補完できる。なんと、奈良時代に編纂された『摂津国風土記』には、当時の能勢町でどのようにお酒が消費されていたのかを示す記述があった。
有歌垣山、昔者、男女相集登此上、常為歌垣因以為名
(つねにうたがきをなしよりてもってなとなす)歌垣(うたがき)山と呼ばれる山があり、昔、男女がその山に登って集い、歌垣(和歌の交換会)が催されていたことからその名が付いた。
『歌垣(かがい)』とは、男女が和歌を詠みあって結婚相手を見つける行事のこと。古代の日本にそんなロマンチックな行事があったなんて。
この『歌垣』の場ではお酒が提供されていたとの推測がある(これは能勢の歌垣山に限らない)。現代の合コンに近い雰囲気だったのだろう。
そして……この歌垣山、なんと倉垣地区にそびえる山のことなのだ。まさに秋鹿酒造の裏手にある山が『歌垣山』なのである。
さらに興味深いのは、奈良時代の時点で「昔のこと」と記述している点。つまり、奈良時代より前の時代……古墳時代のことと考えられる。倉垣遺跡の出土状況と重なるではないか。
酒造に使われていた可能性のある土器2種と、古墳時代の合コン。
これを偶然の一致と片づけていいはずがない。
古墳時代の倉垣地区には、お酒をつくる道具とお酒の使い道の両方があった……!
平時は農業を営んでいた
道具と使い道だけでお酒はつくれない。原材料が必要だ。日本酒の原材料はお米だから、お米を安定的に収穫できる環境が要る。
その点、古墳時代の倉垣地区に不足はない。先に少し触れた通り、倉垣遺跡からは「(おそらく)古墳時代の水田跡」が既に見つかっている。
すると、このようなストーリーを描くことができるだろう。
古墳時代、倉垣地区の集落に住む人々は自分たちで稲作を行っていた。
秋に収穫したお米は平時の食料となるほか、お酒づくりの原材料としても使われる。甑で蒸されて米麹となったお米は、水とともに甕の中で貯蔵・熟成され、日本酒となる。
そのお酒は、倉垣地区の行事である「歌垣」にて提供された。
原材料と道具と使い道。
古墳時代の能勢町倉垣地区には、この3つの要素がそろっていたことになる。
もちろん、確証を得るためにはタイムマシンが必要だ。それでも、ぼくはこう言いたい。
大阪府能勢町倉垣地区における『自給自足のお米づくり&お酒づくり=農醸一貫』の歴史は、どうやら古墳時代にさかのぼるらしい……!
「農醸一貫」のライフスタイルと現代の生活
古墳時代の大阪府能勢町倉垣地区には、「自分たちで育てたお米でお酒をつくり、地域で消費する文化」があった。その可能性は非常に大きい。
もちろん、これはおそらく古墳時代の酒造全体に共通する文化だったはずだ。いわば、自給自足が前提となる時代のお酒づくりであり、生活である。
巨大な古墳が示すのは権力者の姿。倉垣遺跡のような一般民衆の姿は、古墳からは見えてこない。
機械化・情報化・輸送の高速化が進む現代では、そのような「古墳時代的な生活」は失われてしまった。
しかし、大阪府能勢町には残った。自分たちのお米でお酒をつくる、古い時代の美しい日本の文化が。
現代の酒蔵である能勢町・秋鹿酒造は、古墳時代の遺跡の上に立っている。
その秋鹿酒造が掲げる『農醸一貫』は、まさに古墳時代以来の「自分たちで育てたお米でお酒をつくり、地域で消費する文化」を受け継いだものだ。
もちろん、秋鹿酒造の創業が古墳時代に遡るわけではない。けれども、能勢・倉垣の土地に刻み込まれたDNAがどこかのタイミングで奇跡的に復活し、今なお続いている。
つまり、古墳時代の『農醸一貫ライフスタイル』は、姿かたちを変えつつ、一部ではあまり変わらないかたちで、現代人の生活にも刻み込まれているのである。